早稲田大学とダイバーシティ
1905(明治38)年4月4日、早稲田大学野球部は横浜港からアメリカに向けて出発した。日本初のスポーツ海外遠征は、学生の国際交流の先駆であり、日本の野球発展の礎ともなった。しかし、時は日露戦争、日本海海戦の前月のことである。戦況に集中していた世論を考えると、文字通り破天荒の試みだった。
遠征を率いた初代野球部長の安部磯雄は、政治経済学部長、庭球部長、交響楽団会長を務め、学外では東京六大学野球、大日本体育協会の設立と発展にも尽力している。安部は、新島襄から受礼したクリスチャンであり、貧困と差別の解決に取り組んだ社会主義者としても知られている。社会主義協会を結成して非戦平和、貧困救済を訴え、福田英子の『世界婦人』発行を支援し、山本宣治とは産児制限運動に取り組んだ人物である。
100余年前の安部の女性教育観も興味深い。男女別制度の良妻賢母主義では「高等」女学校ではないと批判し、大学教育の女性への開放を説いて、その目的を女性の精神的、経済的自立においた。安部の思想と行動は、当時の社会ではかなり急進的に映っていたはずである。大隈重信の度量は大風呂敷とも言われたが、野球部のアメリカ遠征支援以前に、安部という個性を早稲田に迎え入れた判断にも注目したい。
ダイバーシティの意味が多様性重視と個性尊重にあるのなら、それは大学(University)にとっては不可分な要素である。大隈の場合、佐賀、長崎での経験から海外に学ぶ必要性を知り、一方で、明治政府の教育政策による人材画一化への危惧を抱いていた。東京専門学校創設にあたって、強靭な個性の伸長を掲げた所以である。安部の招聘も、彼の国際経験と見識、「世界に目を向けて心を開く」姿勢に期待したと考えられる。個性的であったのは安部に限ったことではなく、創立期からこの学校を支えたのは、異端とも見える独創的で、多彩な人々であったことを想起したい。
「本当にいろんな人がいる」のがこの学校の特色であるし、個性を認め合って成長していける空間が魅力であると思う。早稲田大学がダイバーシティ推進を掲げる意味、その課題を、これからもみなさんのご意見を頂きながら検討していきたい、と考えている。
早稲田大学と男女共同参画
2007年、早稲田大学は創立125周年という節目の年をむかえた。あらためて本学の理念と建学の精神が確認され、新しい125年への出発が問われたこの年、早稲田大学に男女共同参画室が誕生した。ここでは「早稲田大学と男女共同参画」についてお話してみたい。
【大隈・高田の試み】
大隈重信の多様な業績のなかで、案外知られていない事業に女子教育に関する貢献がある。明治に発足した近代学校制度の欠陥のひとつは、高等教育機関である大学が女性に対して開かれていないことだった。小学校を卒業した後、男子には成績と経済的制約はあっても、中学校、高等学校、大学へと進学する道が開かれていた。これに対し、女子の進学希望者は高等女学校に進んだ。そこは、中学校と比較して国語・数学の時間数が少なく、外国語が随意選択、家事裁縫が必修であり、高校、大学には接続していない。中等教育から男女には別制度の教育が用意され、大学は男子のための教育機関であり、女子のためには教員養成の師範学校、専門学校等が存在するのみであった。
そんな当時、大隈は女性の高等教育機会を重視し、女子大学校の開校にも尽力した。大阪の梅花女学校の成瀬仁蔵が女子大学の設立を構想したとき、大隈はこれを無条件に支持して創立委員長をつとめた、それが1901(明治34)年創立の日本女子大学校である。さらに、第3代総長をつとめた高田早苗は、文部大臣時代の1915(大正4)年に、高等女学校卒業者にも男子同様、大学入学を認めるという当時としては画期的提起をしている。結局、多くの政府委員の反対にあって見送られているが、「共同参画の先駆」として確認しておきたい。それは、早稲田の先人の理想であったのである。
【共同参画社会と大学の課題】
第二次世界大戦後、日本の大学は男女共学となり、今日に至っている。早稲田大学には現在15,000余人の女子学生が在籍し、いくつかの学部では、女子の学生数が男子を上回っている。大隈、高田はこの光景をやわらかな表情で見守ってくれていることだろう。キャリアセンターの集計によれば、2005年3月の学部卒業生の就職・進学率合計も、男女が約80%というほぼ同様の数値を示している。この数値は、私を含めた1980年代前半までに大学を卒業した「男女雇用機会均等法」以前の世代にとっては感慨深い。私自身、1980年当時、一緒に学んだクラスやサークルの女子が4年生大学の女子学生、あるいは地方出身という理由だけで、まともに就職活動が行えない差別を身近で見てきた世代だからである。当時から考えて、男女同様の数値は雇用の男女機会均等化への進歩を示し、さらに、近年の「男女共同参画社会基本法」等によって、学び、働く女性の法的環境はさらに整備されつつあることを感じる。
しかし、それは、すべての問題の解決を意味しているわけではない。例えば、大学院進学率(とりわけ理系において顕著な男女差)、また女性の卒業生の追跡調査を行った場合、就業継続の課題は依然として存在している。実際、大学においてゼミ等を担当した教員であれば、次のような経験をもたれているのではないか。つまり、在学中は学習、課外活動の両面において元気であった女子学生が、リクルートスーツを着るころから迷いはじめ、首尾よく就職したとしても、その卒業後、折にふれて悩み、やがて彼女の「ガラスの天井」 に直面してあきらめていく姿、である。
見方によれば、女性の教育と就業をめぐる問題状況はかたちを変えて継続しており、機会均等法以前と比較した場合でも、むしろ、問題そのものが複雑化して、見えにくくなっている、という指摘もある。とりわけ、近年の就業構造とキャリア観の変化、ロールモデルが見えにくくなっている現状の中で、男性も含めた就業および就業継続の課題、夢を描きにくくなった「未来」とライフデザインに大学はどう対応するか、が問われている。
(ワセダコム、矢口原稿より)
【コラム―共同参画について】
生キャラメル―水あめなしでつくりました
かつての私はお酒が大好きで、毎日、晩酌を楽しみ、食後はスポーツ中継を眺めながら寝入ってしまう「典型的な中年男性」の道を歩んでいた。ところが、30代末に体調をこわして入院、それを機会に禁酒をすることになった。直後は、健康のかけがえのなさを実感したものの、何か物足りない感覚があったことも確かで、習慣と依存の怖さを知った。
その後、その空白を補ってくれたのが、掃除、洗濯、食事をはじめとした日々の家事だった。当初は、周囲の勧めから始めたものであったが、今では、すっかりこれに「はまる」ことになった。
最近は、仕事のストレスが強い時こそ、日々の掃除、洗濯は不可欠なものであり、例えば、晴天の休日にシーツを洗い、キャラメルづくりのために弱火でなべをころがすのは楽しい時間となっている。
負け惜しみに聞こえるかもしれないが、私の場合、病気を契機にしらふで身の回りの生活に向き合うことになり、結果的にその大切さと楽しさを知ることが出来て本当に良かったと思っている。「うそ」で始めたことも、10余年を経て大切な事実となった。
女性も男性も、仕事と同様に、日々の生活の意味を知り、それを大切にしていくこと、また、それが出来るような社会が共同参画の不可欠な要素であると考えている。
(矢口『早稲田大学共同参画ニュースN0.3』2010年)
【日本の女子教育と洋装化】
日本初とされるセーラー服、ダンス―大正期・平安女学院蔵
中学、高校の制服のデザインが学校選択の大きな要素になっているという。
そもそも、日本人と洋装の出会いは、16世紀のスペイン系の衣服であり、今の合羽、襦袢にその残影がある。鎖国時代を経て、幕末の各藩に欧米の軍服が応用され、明治初期には政府高官、軍隊、学校で男子の洋装が定着していった。その反面、女子の洋装化には紆余曲折があった。文明開化の時代に、現在の女子学習院、お茶の水女子大付属学校で洋装化が試みられたが、強硬な反対を受けて、しばらくは着物時代が続いている。
変化の契機は、1899(明治32)年、ドイツ人医師のベルツが女子の体育について講演し、日本人の体位向上のために女子の運動の必要性と衣服改良を指摘したことにあった。事実、良妻賢母主義教育の高等女学校が成立すると、将来、母親になる女学生たちにブルーマーでの体育が必修となり、男子の礼装だった袴着用が認められるようになった。袴姿とリボンで纏めた髪は女学校の象徴となり、当時の憧憬は今日の大学の卒業式にも続いている。
大正になると、子どもの洋装化が始まり、女学校にセーラー服が登場した。さらに、関東大震災の経験は服装の機能性重視をもたらし、女性の洋装化を加速させた。しかし、学校教育において女子の洋装制服が定着するのは昭和初期であり、それは男子と比べて半世紀近く後のことだった。この男女間の時期の格差は、男子中心に準備された戦前日本の教育制度の歴史と女性差別に対応していた、とも捉えられる。
制服(Uniform)には、実用性と同時に、文字通り統一性と帰属、統制に関わる側面が存在しているはずである。世界中の服飾文化を受容し、自由に享受しているように見える今の日本において、学校の制服のデザインが進路選択に大きな影響を与えている意味を、少し考えてみたいとも思っている。
(矢口『早稲田ウィークリー1185号』2009年)